「真実」の飽和状態

いや、今日某ゲームを久しぶりにやっていて聞いた言葉。妙にインパクトがあったので。
みんながそれぞれの「真実」を持っていて、他人と共有しようとしないから、誰からも否定されないが故にどれも正しくはない。そういうような事を言っていた気がします。


俺が普段、人と話したい気持ち、話してくれない、話さない人に対する憤りは、この考えに集約できないだろうか、などと考えてみる。
俺は、自分の持つ「真実」を、他人と共有したいんです。他人と話す事によって変質するかもしれないし、場合によっては粉々に砕かれて、相手の「真実」を受け入れる事しかできなくなるかもしれない。いずれにしてもそこには苦しみや、痛みが伴うだろうと思う。
だからといって、苦しいから、痛いから、傷付きたくないから、それで他者との接触を避けるのは、それはどうなんだろう。生き方の一つの形ではあるけれども、結局は現実逃避の一種でしかなく、最終的にはいつかそのツケがどこかで返ってくるような気がする。


俺は弱い。だから他人と意見を交換する事で、普遍的でない自分の中の「真実」の普遍性を少しでも高める為、話しかける。それはきっと、もう少し前の人間は当然のように行っていた事なんじゃないだろうか、なんて邪推だろうか。


別に、俺は優れてなんかない。欲しいだけだ。