日本の車窓から愛を込めて

最近電車に乗る機会が多い気がします。今日は本の買い出しに名古屋まで来ました。が、もう帰りの電車に乗ってます。駅構内からはほとんど出ませんでした。


熊木杏里ライブの感想も書きたいけど、急ぎの用があるのでそれは落ち着いてからゆっくりと書きたいと思います。


昨日テレビで100円玉で出来る事みたいなテレビ番組がやってて、その番組の構成自体は気に入らなかったんだけど、募金をする事でどこかの誰かの暮らしが少しでも快適になるならしてみたいな、と思い、ユニセフのホームページなんかを見てみたりした。
だけど、どれもこれも活動内容を読めば読むほど、俺は安易に募金する気にはなれなくなってしまう。募金して、誰かが何らかの助けを受ける。それは素晴らしい事だと思うし、現場で活動してる方々には敬意を払いたい。
けど俺は、どうしても助けられない人の気持ちを無視する事が出来ない。きっと援助が回る所と回らない所に境界線が出来て、そこには歪んだ感情が生まれる気がする。そうしたら、軽はずみな気持ちの募金ならば、最初からしなければいいのでは、と思う。


だから俺は、まず自分の抱えている借金を返済する事から始めなければいけない。そして、俺が自分の心に嘘偽りなく誰かを救いたいと本当に思うならば、莫大な財産と、それを確実に提供できるだけの地位を築かないといけない。でも自分の労働の動機はそういう風にはならない。


こんな事をその番組を見た後ふと考えて、自分はいかに自分を可愛がっているか痛感した。俺は俺が可愛くて可愛くて仕方ないから、今持っているものを手放して困っている人を助けようと思えないのだ。最低だな、と思うと同時に、人間ってなんなんだろう、とも思った。


日本という国は、良い意味でも悪い意味でも、経済的には比較的(というかかなり)恵まれているから、よほどの事があっても帰る家がある人は、とりあえず今日食べるものに困っているという事は、あまりないと思う。けれど、モノで満たされたこの国には、今、大袈裟な言葉を使うなら「愛」が足りないように思う。
テレビで見る貧しい国の人達は、確かに大変そうだけど、生きる事に必死だからずっと人間らしく見える。それをドキュメンタリー風にして見て、ブラウン管(今は液晶もあるか)の向こう側であーだこーだ言ってる芸能人の方が、俺からしたら病的にみえる。


人の不幸をちゃらちゃら取り上げて、消費者を弄んで。マスコミは、自分達が本当にしなければならない事をもう一度きちんと見つめなおさなければいけないのではないか。競争社会が生んだ悲劇は、終わることのない負の連鎖だ。