「いじめ」という問題について

ニュースで報じられていて、そしてそれに対する色んな方の日記などを拝見して、自分なりに感じている事を書きたいと思い、キーボードを叩いています。


「いじめるやつが悪い」
「いじめられるやつが悪い」


そりゃあない方がいいんです。あるよりはない方が良い。きっと良い。
でもなくならない。どうしてか? きちんと考えてみた事はありますか、感情論ではなく。


「いじめるやつが悪い」一辺倒の方、あなたがおいくつかは知りませんが、今だから言える事じゃないですか?
ご自分が子供だった時、「いじめ」とまではいかなくとも、知らない間に他人を傷つけてしまった事が「絶対になかった」と、断言できますか。断言できてしまうなら、それはそれでとても危険な事なのですが。
子供の頃というのは、罪悪感というのは希薄なもので、悪い事をしていると薄々気付いていつつも集団になるとついついやってしまったり、加担していなくても見て見ぬ振りをしてしまったり。そんな体験はありませんか。


「いじめられるやつが悪い」と主張される方は、いじめられる側の何が悪いというのでしょうか。きちんと考えて書いていますか。


僕個人の考えとしては、「両方」です。もっと言うと「いじめるやつも、いじめられるやつも、周りで見てるやつも、良くもないし悪くもない」です。
いじめにあう人がすべてそうだとは言いませんが、多くの人が色んな意味で「個性的」な印象を受けます。飛び抜けて優秀なのかもしれないし、集団行動が苦手なタイプかもしれない。もしかしたら、足に少し麻痺がある人かもしれない。
その「少し違う」という事が、集団を作っている人間にとってはなんだか気に入らないのだと思います。自分達の思い通りにならない。もしかしたら、何かしらの脅威を感じているのかもしれない。


ただそれだけの事でも、いじめが起こるには充分過ぎる要因だと思うのです。


そして、これは決して学生だけの問題ではない事の方が注意すべき事だと思います。
身体的な成長、変化と、精神的な成長は必ずしも一致しません。当たり前の事ですが、大人になったら「いじめ」はなくなるなんて事はないと思うのです。
セクシャルハラスメントパワーハラスメント、形は違えど他者を貶めたりする事で自分が優越感を感じる。基本的な構造は同じ様に僕には思えます。


今回この記事を書くきっかけになった事件というのは、いじめの状況を録画し、インターネットで公開していたというものだったそうですが、5人が無期限の停学。
それに対し、色んな感想や意見が飛び交っていました。


「こんな社会の屑は一生刑務所だ」
「また少年法か」
「なんで退学じゃないの」
「こいつらも同じ目にあわせてやれ」


厳しい意見は上記のようなものでした。
書いている方は気付いているのでしょうか。ご自分が加害者になってしまっている事に。匿名性の名の下に、言いたい放題言っている自分を見つめ直す機会はないのでしょうか。


「お前だってどうせ大した人間じゃないんだろ」


そうです。だから考えてほしいんです。
思った事をただ書きなぐるだけなら、誰だって出来ます。
インターネットを使った誹謗中傷が嫌いです。