人間の命は平等か

そもそも、そんな事一体誰が言い始めたんだろう。


「土浦連続殺傷事件」という事件について、ニュースをみて、色々考えていた。
あるSNSの日記では、色んな意見がなされていた。以下抜粋。

・常識に捉われず、死刑も“なぶり殺し”でどうだろうか?
・死ぬ間際になったら怖いし痛いし苦しむだろうから、その時に悔いて死ねば良いよ。
・俺としては拷問有りの無期懲役にすりゃいいのに。
・こういう奴はじわじわ殺してやればいい。 死にそうになったら蘇生させてを繰り返して死の恐怖を味合わせてやればいい。

・死にたがってる基地外は微妙なラインで生かして生き地獄を味合わせてやりたいと思うけど、こいつが生存する為に国の税金使うのももったいないので、こいつが何かしら単純な動きをする事で本人の食事代ぐらいが稼げて、週に一回くらい何かしら死んだほうがいいって思うキツイおしおきが待っている的な刑とかないのかな。


本当はもっとひどい事を書いた日記が沢山あった。でも消されてしまったみたい。


自分は、人を殺す事を自分がしたいとは思わない。でもそれを他人にも強要する事はできない。
「常識」という言葉によって、大前提として「人が人を殺したいと思うはずがない」と思っている人があまりに多い事に驚いた。自分がそう思うから、他人もそうに違いない、というのはあまりにも安直な考えだと思う。


これは、亡くなった方とか、その遺族の方がどう、という事とは全く別の問題だと思う。一緒くたにしてしまってはただの感情論にしかならない。
人を実際に殺すのはいけないけど、上であげたような事を公の日記で書く事は「常識的に」良いのか。行動に移さなければ、それでいいのだと。そんなはずはないのではないか。


戦争から時間も経って、世界のどこかでは起こっているけど現実には見えない。そんな中で生きている間にいつの間にか「常識」という言葉で色んな観念が植え付けられてしまったように思う。例えば今書いている事に関してならば、


「人を殺してはいけない」
「人間の命は平等である」


そう思う事こそが「当たり前」だというのだろうか。
想像してみて欲しい。生まれた時から食べ物にも困らずすくすくと育った人間と、間もなく餓死してしまった人間の命は本当に平等か? 優劣の問題ではない。
何かしらあって、人を殺してしまった。それがすべてとんでもない事だと、どうして言えるのだろうか。


今自分が生きているのは、江戸時代とか、紀元前とか、もしかしたら人間になる前から自分の先祖が生き残ってきたからだ。その間に自分の先祖が殺生をしていないはずがない。していなければ自分は今ここにはいない。
それでは、自分の先祖に「あんたは『常識的に考えて』いけない事をした」といえるだろうか。


根本的に誤った認識が多分あって、それは、「平和」とか「自由」とか、「平等」とか「常識」とか、そんなありもしない抽象的な概念をさも目の前にあるかのように考えている事だと思う。
「スローガンは大衆の思考しようとする力を奪う」。そんな風に思う。


だから、主張する前にまず疑問を持ってみて欲しい。
この事件に関して言えば、「人は本当に人を殺したいとは思わないのか」という事を、もう少し考えてみて欲しい。
僕は、自分は今の所したくないけど、したい人はいるんだろうと思う。そういう部分が人間になければ、上であげたような残酷な言葉は出てこない。
「今は」と書いたのは、例えば大切な人が殺された時でもそういっていられるかと考えたら、解らなかったからだ。


「人が人を殺したいなんて、思う訳ないじゃん」と結論するのはとても簡単な事。それでは、「この手で殺してやりたい」という遺族にもそういえるのだろうか? 行動にこそ移せないが、事情はどうあれその人には「殺したい」という感情が芽生えている。


人間はそんなに高尚な生き物じゃないと思っている。動物の方が、よほど色々解っていると思う。ほんの少し脳の容積が大きくて、思考する事や感情が芽生えただけ。そんな人間に完璧を求めるのは見当違いだと思う。「平等」や「常識」は、完璧を求める言葉だ。