他人との関わり方

先日、大学時代の後輩から着信がありました。
僕に電話をくれる時というのは、大抵機材の相談(何を買ったら良いか、など)なので、今回もまたそんな用件かなと思い折り返しの電話をしました。



僕は彼が、確かに繊細な所はあるけれども、社会に出ても柔軟にやっていくタイプだろうと思っていました。



後輩は今の職場に勤めて3年目で、勤務当初から上司との折り合いがつかないという話は聞いていましたが、ここにきて関係がかなり悪化しているようです。接客業なのに笑えない日が一週間続き、辞表を書いておこうか、と悩んでいると話してくれました。



後輩から聞いた話だけですべてを語る事は勿論できないのですが、どうも上司にあたる人の職務態度に問題があるようです。具体的には、その人が部下に教えていくべき技術を教えない、相手をただ非難するだけの言葉を浴びせる、など。



上に立つ人は、本来は部下を育てるのが仕事の一つです。少なくとも僕はそうだと考えています。
ある技術があり、それを自分しか出来ない、教えられなかったとして、他人に教えようとしないのにはとても些末な理由があるように思います。すなわち、その技術を自分が独占する事で、自分の上司としての立場を維持しようとするような意図があるのではないかと考えます。



その上司は「俺が時間をかけて覚えたんだから、教えられる訳ないだろう」という風な言い方をしているそうですが、仮に経験で学んでいくしかない事であっても助言くらいはできそうなものです。



また「お前は接客に向いていないんだ」とその上司に言われたと、後輩は話しました。
この言葉、一体何の意味があるんでしょう。僕には本当に理解出来ない。


誰だって向き不向きはあります。後輩がもしかしたら接客業に向いていないのは事実かもしれません。でも現在後輩が就いている仕事は紛れもない接客業であり、向いているか向いていないかなどは問題ではないのです。


本来なら、本人も含め「では向いていないなりにどのようにしたら良いか」とか「部署の変更は可能か」などを話し合ったり考えたりするのが普通ではないのでしょうか。


ここで「普通」という言葉を使いましたが、世間一般にそうなっているとは思いません。恐らく後輩のようなケースが沢山あって、それで仕事を変えたり、辞めざるを得なくなる場合があるのでしょう。


ここでの問題は「思考の放棄」です。
確かに他人の為にあれこれ考えるのは苦労するし、よく解らない事も多いです。なんでわざわざ自分が、と思う事もあるでしょう。
でも、人間同士の関わり合いなんてそれの連続だと思うのです。よく解らない他人の為にあれこれ考え、試行錯誤する。それが本来の人間関係の在り方ではないのかと考えています。


「お前はこの仕事には向いていない」というのは、端からみると「俺にはこいつを育てる力がない」と公言しているようなものです。上司として部下に、どのようにしたらより良く仕事ができるかを考えてあげられないのは、自分が無能だと言っているのと同じです。


恐らくこの上司は「俺はこの仕事に向いている。だから業績があがっている。でもお前は向いていない」程度の気持ちで言っているのでしょう。



つくづく、学校教育の弊害は大きいなと実感します。
とにかく、社会に出ても比較したがります。テストの点を比べるのと同じです。そして比べたがりに限って、大抵自分の得意分野で比べます。自分が優位に立てる事に比較する意義があるからです。


本当に貪欲で向上心のある人間は、どちらかというと苦手分野で他人と自分を比較します。そして負けていられないと思い、時には落ち込み、挫折を経験しながらも、何かしらを得ていきます。


勿論、客観的に自分がどういう分野が得意であるか把握していく事は重要です。しかし、それはあくまで把握して行動に活かせばいいのであって、優越感に浸る為に比較することはみっともないことだと思います。



後輩は大変でしょうが、きっとこの経験から別の事を学んでいってくれると思います。慣れないなりに今の仕事を続けていくのかもしれないし、辞めて別の仕事にしてみたら案外楽だった、なんて事もあるかもしれません。


ただ一ついえるのは、行動していないと、何が自分に合っていて、何が自分に合っていないのか、それすらもはっきりしないままだということ。そりゃあ即座にすんなり解る事ばかりではありませんが、五里霧中よりは幾分マシになります。



今のご時世あわただしく、他人に気をかける暇なんてなかなかないのかもしれません。でもせめて、自分の身近にいる人くらいには目をかけてやって下さい。