果てのない夢を

みんな見てるんだろうとか、時々考える。
俺の周りには何故だか、死にたいと言う人が多い。憂鬱な人が多い。そんな風に思っていたけど、結局俺が交友関係を選んでるからそういう人とだけしゃべってるってオチだ。
人によって理由は様々で、よく意味も解らずに生きているのがイヤになって、死にたいと思っている人もいれば、何かをどうしようもない程悔いていて、それで死にたいと思ってる人もいる。
その一方で、そんな事は全く考えてない様に見える人も、いる。実際は解らないけどね。


こういうのって何の違いなんだろうって考えてたんだけど、生育環境、遺伝子、その他諸々・・・最終的には脳の機能の違いにいきつくのかな。俺はあんまり科学的な解釈は好きではない方なんだけど、やっぱり脳は機能的に大きな部分を担っている。
ちょっと前なら、「食べたくても食べられない人がいて・・・」ってパターンで自分の気持ちを鎮める事も出来た。まだ自分はうんと恵まれてるって。でもそれって本当かな。 確かに物質的には恵まれてるだろう。けど実際はどうなんだ。飢えと精神的な行き詰まりは、比較出来るものではないんじゃないかと思う。
キルケゴールは絶望が死に至る病だと書いていた。あの本は有名だけど、俺は最後までどころか最初の方で読むのをやめてしまった。高校の頃だったと思う。彼の人生は壮絶だけど、彼は文章の中でもしきりに神に救いを求めていた。
スウェデンボルグの思想も、もう最近では願望くらいでしかなくて、俺の中の確信にはならない。今が苦しい事の説明にはならない。


苦しいとか、悩むとか、それがなかったら成長も多分ないから、これまでの事を後悔とかはなるべくしたくない。だからって簡単に割り切って生きていける程俺は優秀じゃない。
今が苦しいのは、例えば子供の頃と比較するからだと思う。子供の頃も何かとあったけど、苦しいとかいう感情じゃなかった気がする。とてもドラマチックな世界だった。悲劇は悲劇として味わっていた気がする。
でも今は、簡素な現実が逃避的な思考に逃げさせてくれない。直視しろ、と、しきりに促してくる。
どこで間違えた? なにを失敗した? なんて考えてみたけど、結局はそういう事ではなくて。俺たちはありもしないもののせいで苦しんでいる。それは夢だ。幻だ。単なる幻想でしかなくて、現実にあるものじゃない。


だからって現実をやめるかっていうと、そうじゃない。たまにあるじゃないか、その苦しい事の合間に、素晴らしい事が。そっちに目を向けてやろうよ。俺も苦しい時は出来なくて困ってるんだけど。
信じられない位エネルギーのある人がいる。寝てないんじゃないの? っていうくらいアクティブな人。でも決して単細胞ではなく、むしろとてつもなく高尚な思考を持っている人の方が多い。こういう人は、素晴らしい事をものすごくポジティブに受け入れられる事が出来るんだと思う。苦しみも吹き飛んでいく位の勢いで、喜びを受け入れる。それもその人の気質のような気がする。
そしてそういう人をみると、「羨ましいな」と思ったりする。あんな風に生きられたら、なんて考える。でもこれもお互い様で、みんながみんな、多かれ少なかれ自分の生き方に疑問を感じ、それを他人の生き方と重ね合わせてため息をつく。自分には出来ない生き方をみんながしている事に気付くから。でも本当は自分のように生きられる人も他にはいなくて、羨望だとかそういう感情は自分の中の理想を他人にみているだけのような感じ。プラトンイデアに近いのか、否定的だったけど、こう考えるとやっぱりすごい。



時間が永久にある訳じゃない。経済的に恵まれてる訳でもない。限られたものの中で、自分には何が出来るのか、何が残せるのか、何が伝えられるのか、そういう事をもう少し考えてみたい。